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岡山地方裁判所 昭和33年(ワ)262号 判決

原告 富田小太郎 外一名

被告 岡山県

主文

被告は、原告両名に対してそれぞれ金一〇万円およびこれに対する昭和三三年七月四日から支払ずみにいたるまで年五分の割合を支払え。

原告等のその余の請求を棄却する。

訴訟費用は二分し、その一を原告等のその一を被告の負担とする。

事実

原告訴訟代理人は、「被告は、原告に対してそれぞれ金四五万円およびこれに対する昭和三三年七月四日から支払ずみにいたるまで年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は、被告の負担とする。」との判決および仮執行の宣言を求め、その請求の原因として、次のように述べた。

一、訴外亡冨田慶子は、昭和三三年四月六日午後四時三〇分頃二六吋の自転車に乗つて、岡山県上道郡上道町と邑久郡長船町とを結ぶ芦田橋にさしかかり、南より北へ約三分の二を渡つた時後方約二〇〇米を進行してくる中国鉄道株式会社の観光バスを強く意識し、反射的にこれを避けるため、橋の左端に寄ろうとしたところ、橋にらんかんがなかつたため、別紙図面表示の地点から約八米下方の川原に転落し、骨盤および右大腿骨骨折の傷害を負い、そのため、同日午後六時五五分死亡した。

二、右芦田橋は、大阪・門司を結ぶ一級国道である国道二号線の一環をなし、全長四〇〇米、幅員五、四米、橋脚の高さ八米の昭和五年に新設されたいわゆる鋼道路橋であるが、昭和二〇年頃その高欄を陸海軍に供出したので、交通に危険な橋となつた。とくに昭和二五、六年頃より自動車の交通量が漸次増加し、本件事故発生当時には益々増加し、かつ車輛も大型化してきた。このような交通量の増加した状態のもとにおいては、芦田橋のような典型的な鋼道路橋には、通行者の安全を守るために、高さ橋面より九〇センチメートル以上、側面一米につき直角に二五〇キログラムの推力が頂上に働らくものとして設計された高欄が必要である(社団法人日本道路協会昭和三一・五・一五発行、鉄道路橋設計示方書同製作示方書解説一一三頁参照、同示方書は、青木楠男外二一名の官、学、業の三部門より選ばれた委員が三箇年の日時を費して作成したものであつて、建設省が起業者であるときは、少なくとも同書に示す規準による)。ことになつている。しかるに、芦田橋には、右の如き高欄を修復する等通行者の安全を守る措置が施されておらず、本件事故当時には別紙図面表示のように、殆んど高欄が除去されていたのであるから、橋梁の管理にかしがあつたというべきである。しかしてこのかしのために、本件事故は惹起されたのであるから、右橋の管理費用の負担者である被告は、右事故によつて生じた損害を賠償すべき義務がある。

三、(1)  ところで、右慶子は、本件事故によつて傷害を負い、死亡するまで人間として最大の苦痛を味わつたものであるから、被告は、右慶子に対して相当の慰藉料を支払うべき義務があり、その金額は、金三〇万円を相当とするが、慶子の死亡によつて、その父母である原告両名が相続によつて右慰藉料債権を承継取得したが、その相続分は、相均しいので、各自その半額一五万円の慰藉料債権を有する。

(2)  また、原告小太郎は、明治三九年三月六日生れ、同コハナは、明治四四年三月二〇日生れで、原告小太郎は、訴外品川白煉瓦株式会社に勤務し、一箇月の収入一万五千円の検量工であり、原告等の長男晴良は、結核性体質で自宅療養をつづけ当分快復の見込がない。これに反して、慶子は、健康に恵まれた心情のやさしい女子であり、将来美容師として一家の生計を助けようと考え、岡山県理容美容専門学校を受験し、昭和三三年三月三一日同校より入学の許可を受けており、同女の将来について原告等の期待するところは甚だ大きかつたので、その死亡により、父母として原告等は、精神上甚だしい苦痛を蒙つた。そこで、被告は、原告両名に対し相当の慰藉料を支払う義務があるが、その金額は、それぞれ三〇万円をもつて相当とする。そこで原告両名は、それぞれ被告に対し(1) の相続による慰藉料債権金一五万円と(2) の固有の慰藉料債権金三〇万円合計四五万円とこれに対する訴状送達の翌日である昭和三三年七月四日から支払ずみにいたるまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

と述べ、被告主張事実中、本件事故当事、芦田橋には前記観光バスのほかに、通行する自動車、自転車はなかつたこと、慶子が同橋の近在に居住し、同橋を通行した経験があり、らんかんがないことを知つていたことは認め、芦田橋の親柱に被告主張のような注意標識が標示されていたとの事実を否認し、その余の事実を争つた。〈立証省略〉

被告訴訟代理人は、「原告等の請求を棄却する。訴訟費用は、原告等の負担とする。」との判決を求め、答弁および主張として次のように述べた。

一、原告主張の請求原因欄一の事実のうち、慶子が原告主張の日時に自転車に乗つて原告主張の芦田橋を進行中、その主張の場所から転落し、死亡したこと、転落場所と原告主張の観光自動車の進行位置が二〇〇米あつたこと、およびその転落場所にはらんかんがなかつたこと。同二の事実中芦田橋が原告主張のように国道二号線の一環をなしていること、その高欄を戦争中に供出したため本件事故当時には原告主張のように高欄がない部分があつたこと、および被告が同橋の管理費用の負担者であること、同三の事実中原告等が慶子の父母であることはそれぞれ認めるが、その他の事実はすべて争う。

二、本件事故は、慶子の自転車運転上の過失にのみ基づくものである。すなわち、原告自ら主張するように、同女が転落した場所と転落の瞬間に原告主張の観光バスの運行場所との距離は約二〇〇米もあるので、観光バスが自転車を運転していた同女に対し心理的または物理的になんらかの影響を与えたとは考えられない。また転落時において、右バス以外には、芦田橋上またはその近辺を通行していた自動車、自転車等はなく、同女に対する外的影響は全くないのであるから、転落原因に関する原告の推論は事実誤認に基づくものである。また右慶子は、芦田橋近在に居住し、常時芦田橋を通行していたのであるから、同橋にらんかんがないことは熟知していたのみならず、橋の幅員は約五、五米であるから、余程の不注意をもつて自転車を運行しないかぎり転落することはあり得ないのである。それにもかかわらず、同女が転落した原因は、同女の過失以外にはないのである。

三、被告は、戦争中より戦後にかけて朽廃した多数の橋梁の修復に努めていたが、その能力と予算に限度があり、完全な修理をすることができない状況にあつた。被告の橋梁数は、全国第二位にあつて、永久橋(コンクリート造り、石造り等のもの)と木橋とを合計して四千余に達するが、戦時中から戦後にかけて補修できなかつたことと、近時における交通量の増加に伴い、県下の昭和三三年当時における自動車の通行不能の橋梁は九三、荷重制限の橋梁は四四三に上つていた。従つて、橋梁の改築・補修についても、右通行不能橋や荷重制限橋を優先して、まず交通の確保を図つていたのであつて、このため、高らんの補修が後廻わしになつたことはやむを得なかつたのである。この結果、戦争中金属回収等により除去されたものがそのままになつていたり、また代用につけた木柵等が朽廃したため、昭和三三年当時、県下における永久橋で長さ三米以上のもの一七七橋のうち三二橋が高欄不備の実状にあり、芦田橋もその一つである。このような橋梁の現状のもとに被告の予算における橋梁改築費は、人件費を含めて僅か八、一〇〇万円、高らん修築費二〇〇万円程度という少額であつて、被告としては、交通確保の見地より優先順位を定めて逐次改築せざるを得なかつたのである。とくに、芦田橋等の主要橋梁については、国庫より橋梁補修費の補助を受けて早急に補修するため、昭和三一年頃から国に対して申請をしていたが、昭和三三年度に漸く認められ、五〇〇万円の補助が受けられることとなつたが、その補修個所は橋脚の上部にある橋座といわれる部分の補修であり、その工事のためには橋を約一米持ち上げる必要があつたので、その工事の終了までは高らんをつけることができなかつたのである。公共団体がその営造物の管理について万全を尽くすべきことは当然のことであるが、道路・橋梁等について常時万全を期することは不可能である。けだし、道路・橋梁等は、風雨交通等により日々損壊するが、限られた能力と予算をもつてしては広範囲に生ずるこれらの損壊に直ちに応ずることは極めて困難であるからである。従つて損壊箇所には、交通制限をしたり、或いは注意標識等をして通行者に注意を喚起しているのである。営造物における設置・管理は、可能な制限においてかしのないことが要求されると解すべきであるから、前記のような被告の予算と能力の事情のもとで、通行人が通常の注意をもつて通行すれば危険性のない芦田橋に高欄が欠除していても、橋梁管理のかしとは云えないというべきである。しかし高欄がある方が安全であることは勿論であつて、被告は、芦田橋の親柱に「高欄が破損していますから通行者は注意して下さい。」という標示をしていたものである。

四、本件事故は慶子が自転車の運転を誤まつたため起きたものであることは否定することができない。ただ若し転落を防ぐことができる様な高欄があつたならば転落しないで済んだのではないかという問題が生ずるだけである。仮りに現在のようにガードレールが設置されていたとしても、自転車の運転を誤まつたならば或いは転落を免れえないかも知れないとすれば、転落と高欄の欠除との間の因果関係は明確でない。このように考える、被告にその責の一端があるとしても、その評価は極めて僅少であつて、同女の過失が本件事故の大部分の原因であつたことは斟酌さるべきであると述べた。〈立証省略〉

理由

一、訴外亡冨田慶子が昭和三三年四月六日午後四時三〇分頃岡山県上道郡上道町と邑久郡長船町とを結ぶ芦田橋を自転車に乗つて南より北へ約三分の二渡つた別紙図面表示の落下地点から約八米下方の川原へ転落し、そのため同日死亡したことおよび右慶子の転落箇所には、らんかんの設備がなかつたことは当事者間に争いがない。

そして成立に争いのない甲第一号証、証人丹原勉、同井上和市の各証言および原告小太郎本人の尋問の結果ならびに検証の結果を綜合すると、右慶子は、婦人用の自転車のハンドル部分に買物籠とたたんだ洋傘を保持しながら右自転車に乗つて芦田橋の前記地点附近を左端から二尺位の間隔をおいて進行中、その二〇〇米位後方から同橋にさしかかつた訴外中国鉄道株式会社の観光バス(慶子とバスとの間隔については当事者間に争いがない)に気がつき、さらに左側へ退避しようとして、右自転車のハンドルを左へ切つたが、左へ寄りすぎたため、橋の左端にある高さ約一五糎のコンクリート製の旧らんかんの土台に衝突し、高欄等身体を支えるものがなかつたため、身体の自由を失い、前記地点から約九米下の川の州上に自転車とともに転落したことが認められる。右認定を左右するに足りる証拠はない。右認定の事実によると、橋梁上を自転車に乗つて通行中の慶子としては、後方から自動車が進行してくるのに気がついた場合には、橋の幅員や自己の自転車運転技術を考慮して、自転車が、安全に運行できるだけの間隔を橋の左端から保持して通行するとか、自転車から下車して自動車を退避する等自己の安全を図る措置をとるべきであつたのに、これらの措置をとることなく、左側に寄りすぎた同女の過失も本件事故の原因の一であるといわなければならないが、一方、慶子は、その乗用していた婦人用自転車を旧らんかん土台に衝突させたため、身体の平衡を失つたのであるから、該地点に適当ならんかんが存在したならば、これに身体を支えることができ、転落するに至らずにすんだことも容易に推認されるところである。本件事故後に設置されたガードレール式のらんかんであつても、その高さは八〇糎(検証の結果による)であるから、特別の事情のないかぎり(右慶子が、本件事故直前に特別の速度とか姿勢とかで自転車を運転していたと認められる証拠は存在しない)、婦人用自転車に乗車して衝突しても、その人車の転落を防止することができると考えられるから、前記慶子の転落地点にらんかんの設備がなかつたことも、本件事故の原因の一であるといわなければならない。

二、次に、芦田橋にらんかん設備を修復しなかつたことが、同橋の管理にかしがあつたといえるかどうかについて考えてみる。同橋が大阪門司を結ぶ国道二号線の一環をなすものであり、戦争中の金属の回収のため、設置されていた高らんが回収され、その後修復されないで、本件事故当時には別紙図面表示のように高らんがない部分があつたことは当事者間に争がない。また成立に争いのない甲第一、二号証と証人佐々木敏之の証言および原告小太郎本人の尋問の結果ならびに検証の結果を考え合わせると、同橋は、全長三九六米、幅員五、四五米、橋面から川の面までの高さ約九米の昭和五年頃竣工した鋼道路橋であつて、昭和三三年の被告の調査した交通量は、午前六時から午後六時までの間に人一九五人、自転車三二二台、自動車四六〇台であり、当裁判所が検証した日である昭和三六年一一月二日午前一一時三〇分の一分間の交通量は、自動車九台、自転車四台であつて、国道にかけられた橋梁であるため自動車の交通が多いこと、前記のように高らんがない部分が多いため、本件事故以前にも附近住民から被告に対し交通に危険があるとの理由で高らん設置の陳情がたびたびなされていたこと、本件事故以前にも訴外徳田市太郎、同石原篤夫が同橋より転落死亡し、その他にも事故がおきていること、昭和三三年当時において、岡山県下の永久橋二七四橋のうち高らんのないものは三二橋三、一二四米に達していたが、芦田橋はそのなかでも長い橋であつたことなどの事実が認められる。右認定に反する証拠はない。右認定の事実と昭和二五年頃より自動車の数が漸次増加し、昭和三〇年頃には急激に多くなり、かつその車輛も大型化してきたという公知の事実を合わせ考えると、我が国主要の国道である二号線に架設され、しかも幅員は五、四五米あるとはいえ長さ約四〇〇米川面からの高さ約九米という芦田橋について、交通がひんぱんになり、しかも通行車輛が大型化してきた本件事故発生時までに高らんを修復しないまま放置したことは、交通の用に供する橋梁の安全性を欠き、明らかに管理にかしがあるというべきである。

被告は、限られた予算と能力において、膨大な橋梁を管理する被告としては、交通確保のために戦中・戦後にかけて朽廃し、交通不能や荷重制限を余儀なくされた橋梁の修復にまず着手しなければならない事情にあつたから、芦田橋の高らんの修復にまで手がつけられず、不可能であつたから、高らんの欠除は、管理上のかしとはいえないと主張するけれども、国家賠償法第二条は、公の営造物について客観的にみて営造物が本来備えているべき性質や設備を欠いている場合に、そのために損害を生じたときは、国または公共団体がその結果に対して、責任を負うことを定めたものと解すべきであるから、芦田橋の高らんが修復されなかつた事情が被告主張のとおりであるとしても、なおその責任を免れることができないと云うべきである。

しかして、被告が芦田橋の管理費用の負担者であることは、当事者間に争いがないから、被告は、本件事故によつて生じた損害を賠償すべき義務があるといわなければならない。

三、そこで損害額について判断する。

(1)  成立に争いのない甲第三号証に原告小太郎本人の尋問の結果を綜合すると、慶子は、昭和一三年六月一五日生れの女性であるが、本件事故により骨盤および右大腿骨々折の傷害を負い、同日午後六時五五分死亡するにいたるまで、非常な苦痛を味つた。そこで被告は右慶子に対し相当の慰藉料を支払うべきであるが、前記一で判断した同女の過失をも斟酌すると、右金額は金一〇万円をもつて相当とする。ところで原告等両名が慶子の父母であることは、当事者間に争いがないから、原告等両名がその遺産を均分に相続し、各自金五万円の慰藉料債権を承継取得したこととなる。

(2)  成立に争いのない甲第一号証、第四、第五号証と原告小太郎の本人尋問の結果を綜合すると、原告小太郎は年令五八才同コハナは五二才位で、原告小太郎は、訴外品川白煉瓦株式会社に工員として勤務しているが、原告コハナは、健康にすぐれず、経済的には恵まれないこと、原告等夫婦間には長女である慶子のほかに長男晴良、次男信一、三男三郎の四人の子供があり、長男は、結核を患つていたが、昭和三七年三月ようやく他に勤務するようになり、次男三男もそれぞれ家を出て他に職を持つているが、右慶子は、学生時代バレーボールの選手をしたこともある程健康に恵まれ、近所でも親孝行の評判の高い心情のやさしい娘であり、昭和三二年三月瀬戸高校を卒業し、洋裁を習うかたわら、将来は、美容師となる希望を抱き、岡山県理容美容専門学校を受験し、昭和三三年三月三一日入学の許可を受けており、同女の将来について原告等の期待は非常に大きかつたが、その死亡により精神上大きな苦痛を蒙つたことが認められる。そこで被告は、原告等に対しこれを慰藉すべきであるが、その金額は前記認定の諸事実を考慮するとそれぞれ金五万円をもつて相当とする。

四、そうしてみると、被告は、原告両名に対しそれぞれ相続による慰藉料債権金五万円と固有の慰藉料債権金五万円合計金一〇万円と右金額に対し訴状送達の翌日であること記録上明らかな昭和三三年七月四日から支払ずみにいたるまで民事法定利率年五分の割合の遅延損害金の支払義務があるというべきであり、原告の本訴請求は、右の限度において理由があるから認容し、その余は理由がないから棄却し、訴訟費用の負担については、民事訴訟法第九二条・第九三条を適用し、なお仮執行の宣言は、本件事案の性質上相当でないのでこれを付さないこととし、主文のように判決する。

(裁判官 井関浩)

図〈省略〉

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